2025年1月 その1

1月1日。

ゆっくり起床。Twitterには星野源の感情を推し量ろう、私こそがわかっているなどなど勝手なことをいう人間ばかりでうんざりする。

餅などを食べ、特に何をすることもなく過ごす。翌日からの旅行の準備。服くらいしか持っていくものはないのだが、忘れ物があるのではという謎の不安。

能登に行っている木村拓哉明石家さんまを見て、もてなされている姿に違和感を抱くも、その後の現地の方の感謝や楽しそうな表情を見て、絶対的な正解はないことに気付く。

中島哲也の新作に関するニュース。今年もめでたく地獄やで、それでも生きていきますけどという気持ちに。

 

1月2日。

朝から始発で羽田へ。めちゃくちゃギリギリになりながら恋人と合流して飛行機に乗り込む。飛行機が海上ではなく結構陸の上を走るのでびっくりしたが、岡山に行くのにそこまで海に出る必要もないのか。

倉敷の美観地区を散策する。ほとんどセットのようにも見える街並みがすごい。美観地区を一望できる神社で初詣。おみくじには、謙虚にやればいいことあるかも的なことが書いてある。恋人は最高みたいなことしか書いてなくて、がんばってついていくしかという気持ちに。観光地とはいえ、2日なので開いている店がそれほど多くはなかったが、一通り回って歩くだけでも景観の良さで満足できた。夕飯のお店がいまいち見つからずに地元の小綺麗居酒屋のようなところに入った。隣の席の地元の若い女性たちと思われる会話に岡山弁らしき独特の言葉が挟まっており、旅行に来ていることを実感する。

 

1月3日。

美観地区のおしゃれなカフェでなぜかRobot Rockが流れていた。喫茶店ディスクールが売っているカフェ。ベラベッカのジャムのトーストを食べる。ベラベッカについて調べる時間があった。おいしい。お正月だからか黒豆が数粒出てきた。黒豆ってこれくらいの量でいいよねという話をする。テラス席は開放感があるが、風が冷たい。

後楽園でタンチョウの散歩があるというので見に行ったら、急遽中止になっていた。残念。元日の散歩でストレスがたまったのだろうか。休んでくださいと心から思う。鶴舎の外から眺めることができた。タンチョウはめちゃくちゃ大きい声で鳴く。タンチョウを別の場所から鶴舎に移動させるタイミングに居合わせた。箱に入れて2人がかりで運んでいた。運ばれているときはどんな気持ちなのだろう。

後楽園の木々や芝生、全体の景色がとても綺麗でよかった。流れている水が清らか過ぎる。透明。池の中の鯉が集まっている箇所を恋人はやけに怖がっていた。気持ちは分かる。

岡山城。上まで行ったが、展望台って感じではなかったので、うーんとなって早めに降りた。途中まで移動可能なエレベーターの中の匂いがなんか嫌だった。

「調布」という岡山銘菓を食べてみた。笑ってしまうくらいミニマルなお菓子。おいしくないわけではないが、感情が生まれにくい。「きび団子」もかなり似たところがあり、こういうのが生まれやすい地域性みたいなものがあるのだろうかとぼんやり思う。

鷲羽山の展望台から見る景色がめちゃくちゃ良かった。もうこのままで良いかもとちょっと思ってしまった。車を運転できないのでバスの通る限られた時間に来ることしかできなかったのだが、それでも来て良かった。岡山は基本的に大体晴れているというのも、絶景スポットに行く都合が良い。

夕食で今日は地のものを食べたかったのでそういうお店に入る。黄ニラが想像よりもはるかにおいしかった。地のものとは関係のない焼きおにぎり茶漬けも出汁がうまくて良かった。

ホテルで大浴場に行く前の支度をしていたときに、洗顔フォームを昨日大浴場に忘れてきたことに気付く。ロッカーの上にものを置くのをやめろ、自分。癖でどうしてもやってしまう。

ホテルで買ってきた桃のお茶を飲みながらお菓子を軽く食べている時間がなんやかんや一番いいみたいなところもあり、老化を感じる。旅行終わるの早すぎると思いながら眠りにつく。

 

1月4日。

いつもはチェックアウトギリギリになってしまうので、余裕をもって起きた。お土産を買うのに美観地区をあらためて歩くと、4日ということで大体すべての店が営業していた。活気がある。途中のアーケード街で大判焼きがめちゃくちゃ行列になっていたのは何だったんだろう。どう見てもふつうの大判焼きだったけど。

昼食はうどんを食べる。セルフ式うどんの元祖だとか書いてあった。最後に会計をして席につくようなはなまるとかと同じシステムなのだが、会計せずに食べ終わったおじいさんが後から会計していてなんか良かった。

何か旅行の記念に消え物ではない自分たち用の土産を買おうと散策。倉敷はりこの虎が欲しかったが、現品のみということで恋人が買った。以前に仙台で買ったこけしなどと一緒に飾るらしい。

岡山の路面電車がかわいかった。ラッピングだけでなく内装の感じも車両によって違いがあるのが良い。対してバスが地味なのは何か決まりがあるのだろうか。

人と一緒にいると自分の感覚を客観視できてよい。自分のタイム感はちょっと遅くてギリギリになるということがよく分かった。あと、手持ち無沙汰だとすぐにカフェに入ろうとすることとか。

飛行機。気流の問題で揺れるというのは事前にアナウンスがあったが、それ以上に耳がめちゃくちゃ痛くなった。恋人は羽田に着いても、東京駅に移動しても痛そうにしていた。東京駅で崎陽軒のレストランに入ったら、なぜかコメの量が多くて大人には食べきれなかった。意外とそっち方面のサービスなんだと思った。

終電で家に帰った。長い道のりを1人で移動すると、私はやっぱり1人なのかもしれないと思う。いや、1人なんだけど。別の人間なので。

アーセナル戦を眠い目をこすりながら見ている間に気づいたら寝ていた。

 

1月5日。

前日はアーセナルの試合を見ながら寝落ち。スコアは1-1のドロー。なんとなくそんな気がしていた。

起床後に朝ご飯を食べる。オモコロラジオの有料版のモンフィーとオモコロウォッチを聞く。最近はオモコロラジオを聞くのが一番精神的な安定を得られる気がしている。芸人のラジオと比較すると、おもしろくしようという気持ちがあり過ぎることへの恐怖みたいなものかもしれない。

娯楽がたりの話題が流れてくる。去年も結局見なかったけど見たほうがいいのだろうか。考察カルチャーに関しては番組内でも取り上げられていたようだが、三宅香帆のコラム連載も読んだ。

個人的には、枡野浩一のツイート「消費者は、つくり手ではないということによって、潜在的に傷ついている。」というのが考察ブームの根っこにあるという指摘にかなりそうかもと思う。結局みんな何かにはなりたいけど、ハードルが高すぎるから賢しらに考察をすることでそれを紛らわしている。そしてそれはあくまでも考察で批評にはならない。三宅香帆のコラムに書かれていたように「答え」を作るほどのこともまたできないので。この間に日記ブームがあるのではと思うのだが、それは今週発売の文藝を読んでから考えることにしようと思う。

明日から仕事だと気付いたからなのかはわからないが、途端に全部嫌になって死にたくなった。もちろん死ぬ勇気なんてないけれど、自分を過度にどうでもいい存在として認識したくなる日というのは一定の周期でくる。

「どうすればよかったか?」を見に行きたいが、映画館の予定って直前にならないとわからないの不便すぎませんか。

 

1月6日。

仕事始め。特に変わりはなく、ゆったりと過ごす。今日から全力でなどはとてもとても無理だ。

物件情報を細かくチェックするもいまだ特にめぼしいものはない。昨日は寝る前に棚を見ていた。何かが進むタイミングを待ち続けている。

流れてきたnoteの三宅香帆論がおもしろかった。なんとなくのこの違和感はそこにあったのかと腑に落ちた感じがする。誰に届けるかというのは考えるが、ある程度の硬派さもまた何かしらのアピールになるので難しい。

送ってもらった原稿の確認。蓄積のおもしろさを感じる。

自分でも過去に読んだものなどでとりあえず定期的に書こうと改める。

殺される夢はたくさん見たことがあるが、連れ去られる夢はあまり見たことがないことに気付く。何か理由があるのだろうか。

 

1月7日。

仕事はやる気が全く無いに等しい。割と暇な時期ということもある。空虚。これくらいから始まってなきゃやってられないみたいなところもある。

大河ドラマで全裸の女性が出ていたことに端を発して、好き勝手言う構図がまたしても。好き勝手言いたいだけなので、テーマがその時その時で変わっていく。中身のことは本当はみんなどうでもいいと思っているんだろう。

ドラマに出ている男性アイドルと元女性アイドルのやりとりの中で匂わせちゃうか的な騒動がファンの中であったらしい。やっぱり世の中ってまだまだ何かと恋愛に紐付けたいやつが多すぎるようだ。

適度に死にたいみたいなことはずっと思っていたりするが、それは何がどう作用してそうなっているのかはよくわからない。躁鬱的な何かか、嫌なものから逃げたいがゆえのものか。

昨日眠る前にBIOMAN氏の難聴日記をずっと読んでいた。入院中の思考がグルグル巡っている様子などを読むと、人間って本当はこれくらい考えたりする時間が必要なのではと思うものの、退院後の生活の波に流されている感じもまた、人間という感じがして、転職のための有給消化期間のことを思い出した。

漫才って今唯一ノリが「ネタ」として見てもらえる会話なんだと思った。どれだけふざけてるとかバラエティーだとか言っても、漫才という形式に入っていなければ、「ベタ」として見る人がいて、その人たちがベタに向き合ってしまう。そもそもこれは本当に「今」だけのことだったのだろうか。SNSがないからわからなかっただけで、ずっと「ベタ」に激怒していた人がいたのでは。「ネタ」だからどこまで何を言っていいのかという問題は正直線引きが難しいと思っているが、笑わないことで「違う」という意思を表明することはできるので、そういう方向でラインを伝えていくというのはありな気がする。

 

1月8日。

団地の回覧板を読んだ。なんかTLで見かけて、何となくその組み合わせ大丈夫かなと思っていたら案の定で、それって組む側の問題もないですかねと思ったりもしつつ、そういうの今はたくさんあるんだろうなあと思いつつ。今まで滅入りそうなのでちゃんと見てこなかったのだが、いよいよアイデンティティ政治だとかいわゆる「woke」問題だとかについてちゃんと勉強した方が良さそうだなという気持ちになる。

個人的には、いろんな人間いるので極力許容していきましょうよという考えなのだが、それだけではなんともというのが最近の社会であり、そもそも自分の今の考えはシスヘテロ男性、正社員、四大卒である自分だからこそ持てている可能性があるということを踏まえると、もう少し踏み込んでおく必要があるよなあとも思うのであった。同じタイミングでトランプ支持層あるいはトランプそのものをどう捉えるか的なものもまたいくつか見かけたというのもあるし。

基本的には仕事をしていてキレることは少なくなってきているのだが、物事の重要性に対する認識が異なる人が登場するとキレやすくなる。明らかにそれやばいけど、という問題を軽く取り扱われるとお前わかってるのかという気持ちになる。そういうことが続く日。そんな日もある。

 

1月9日。

黒人って創作の中でそれとしての意味がないと出しちゃいけないの?問題を確認。なんというか、じゃあ男って意味あるの?日本人って意味あるの?とかなっていつもよくわからなくなる。

トランプ批判の頭ごなし感への違和感とマジョリティによるマイノリティに対するぞんざいな扱いへの違和感。どちらをどう評価すればよいのかがわからなくなる。

仕事で意味のわからないボール回しを見すぎて気分が悪くなった。ミスをするとか、トラブルが起きるとかよりも、こういうことのほうがよほどストレスを感じるし、イライラが募る。

雪が朝からずっと降っていた。積もったというほどの量にはなっていないが、道路が白くなり、明日は確実に凍っているだろうことが分かるくらいには降っている。母親がごみ捨て場で時折滑って転んでいるという話をし始めて、心配になる。

物件。元々考えていたところからはかなり狭いが、始めるにはこれくらいもありかなというものを見つける。少し考える。

 

1月10日。

演劇の話題が目についた。都会の特権性。そのくせこれを観ないのは損だとかなんとか言い出すみなさま。

仕事。全く新しいことくらいしかやる気も起きない。いろいろダルいことが本当に今起きているのか、休み明けで新鮮さから目につくのかは分からず。

内見希望を出したが、回答は週明けとのこと。どうなることやら。

めちゃくちゃ雪ばっかり。今は道路は凍っていないが、とにかく雪。明日散髪行くの今から嫌になる。