雑感1

ミンヒジンならびにNewJeansを特別視する「オタク」が可視化してから、それに対してマジの人たちからの「舐めんな」という感じがもう半年以上続いている気がする。

 

「作品の中にある「意図/構造/その他大勢」を理解しない大衆のせいで、インスタントなものが流行る」と言うことがどんな意味をもつのか。裏読みできる「頭の良い僕たち」と「バカな君たち」という安易な対立をそこに見出だすバカによって、「頭の良い僕たち」のリーダーとして担がれるのでしょう。

「AのためにBが必要なんだ」というものを突き詰めていくと、「演技の向上のために性行為が必要だ」と「この次のシーンの布石のために暴力が必要」との間の違いはほとんど感じられなくなる。「「暴力」がここまで必要ない、あるいはいらない」と言うと、「「感情」で語るな、次のために必要だ」となる。

「この表現はどうなの」という言葉は「創作者の意図がわからないバカ」の言葉になる。実際には「批評」が何かを決めるゲームマスターはいないので、作品の「意図」を汲み取って批評してもいいし、作品の「表層」をもって批評してもいいはず。そして「意図」と「表層」は括弧付きのものである。

括弧付きの「意図」や「表層」は批評者がそう位置づければそうなるし、実際にどうなのかなんて創作者さえもおそらくはわからないし、わかっていたとしても、意図したものが意図せず読み取られることも当然ある。意図を読み取れる俺すごいのはそうかもしれんが、別にそれはプラスの面だけではない。

藤本タツキの「フツーに聞いてくれ」という作品のことを思い出す。考察厨への「うるせえ」という声ともとれるし、「うるせえ」と言ったところで解釈可能性は無限に開かれているという諦めあるいは事実への向き合い方ともとれる。いずれにしても、どちらかを愚かなものとどうして断罪できるのだろうか。

 

ハイツ友の会の解散をもとに好き勝手言っている人が多い。「ハイツは顔ファンのせいで」の人もいれば、「賞レース至上主義がやばい」とか「顔ファンをバカにしてるやついるけど、男の顔ファンの方がやばすぎる」とか「女芸人を性的に搾取するやつなんやねん」とか、エトセトラ。

前提として本人にしか本当のことはわからない。誰を間違ってるとか正しいとか言ういわれはどこにもないので、別にそれらにあれこれは言うつもりがない。「お笑い」の不寛容さのことを改めて考えた。実際のところ、それは「お笑い」なのか「お笑いへの目線」なのかもはっきりとしない。

「ダウ90000」を「キラキラした大学生あがり」、「ハイツ友の会」を「見た目きれいなのにあっち側に毒舌を吐く女漫才師」、「Aマッソ」を「きれいなのにおもしろを追求しているので下ネタも言える女」、「◯◯◯◯」(好きなものを入れてよい)を「女に媚びないおもろい人」などとすると見やすくなると思っている人が一定数いる。

「ハイツ友の会」の裏側を「読み取って」いろいろ言っていた手合も「ダウ90000」に対して同じことを言えるかというとそんなことはないと思う。「いや、ハイツは他と違っておもしろかったから」とか言い出す人は「おもしろくなかったら見た目などで下駄を履かされたり下に見られたりすることに対して黙っていろ」と言うのだろうか。

そうなると「ハイツはおもんなかったのにごちゃごちゃ言ってる」と言っているどこかにいるかもしれない人には、その言葉が届かないことを意味する。「おもしろいで評価したい/されたい」。お笑い好きは自分がどれだけ「おもしろい」以外で人を評価していることを自覚しているのだろうか。

おそらく大半の人は多かれ少なかれ「おもしろい」以外の「理由」が自分の「好き」には含まれていることに気付く。それをどうすればいいのかというのは答えがないが、その「理由」のもつ加害性について自覚することくらいはできると思う。少なくとも一組の漫才師をやめさせることくらいは簡単なのかもしれない。

 

仕事に対して何のこだわりもプライドもない。でも、上の人が適当にしていたものが問題になってから下にごちゃごちゃ言われるとかは全然納得いかない。何が正しいのかはわからないが、この組織は健全ではないということだけがわかっている気がする。

 

「洗濯回しといて」と言われたことを忘れて風呂に入って出た。この数年、どんどん短期の記憶が抜け落ちている気がする。怖くなった。

 

眠るのが嫌になっている。正確には明日が来ることが嫌になっている。理由はわからないけれど、そういう事になっている。

 

自分の不甲斐なさみたいなものについて今になって気づいているわけではないし自覚はあるが、単純に1人になっているとよくわかってしまう。

 

K君と話した「ダサいってなんやねん」という話が頭の中に残っている。自分の中では「ダサい」は「集団のコードとの距離感」が大きいということなんだろうというのが今のところ考えていること。「ダサい」は対象によって決まるものである一方で、「イケてる」かどうかは自分の中で確立できる。「イケてる」というのは、「コード」の影響を受けない精神性とそれを維持できる自信だと思う。そのものがイケてる/ダサいは究極好みではあるが、それらのうち「ダサい」はなんとなく集団的な合意があるのではないだろうか。逆にイケてるは結構割れる気がする。答えが書いてあるわけではないが本を買ったので読んでみる。

 

相対性理論「テレ東」をめちゃくちゃ久しぶりに聞きたくなって聞いた。いざ聞いてみたら別に何ということもなかった。自分にとってのポップスってこの辺がいつでもちょうどいいなと思う。「アワーミュージック」は泣きたくなる。「正しい相対性理論」はサブスクにはない。大事なものはいつもサブスクにはない。

 

「会話」とか「坊主」とか「Re:Tokyo Memory」とか「存在」とかあんなもんをありがたがってるのは、何も考えてないやつか、考えることを放棄してるやつかだと思っている。が、そもそもそんな事を言ったらTwitterを見ている時点でそうだろと言われたらぐうの音も出ない。だけれどもあんなものは全部ゴミ以下である。

 

「センスがいい」に関する投稿がバズっていて、SNS以降はこういう事言う人が本当に増えたなあと思う。何かが言いたくなる気持ちもわかるけど、下らんなあという気持ちもわかる。いかにメタに立つのかとベタを見せたくない感じというか。

 

なぜbandcampで音楽を買っているのか、今となってはよくわからないが、ただ好きな音楽を聞きたいという気持ちしか多分ないんだと思う。別に買わなくても聞けるものもあるけれども買っている。ファイルとして所持することの意味みたいなものを直視していないのかもしれない。

 

千葉雅也「センスの哲学」を買ってみました。まだ届いていない。届いたら読む。